プロフィール・Profile

初めましてamy0150です。
現在52歳。昨年から1人娘も大学生になり、子育てもひと段落し
「何か始めたい」と思い立ちました。

あれは40歳になった誕生日の朝の事でした。目が覚めた時
「あ〜人生の折り返し地点に立ったなぁ。
今まで色々な人に支えられながら今日まで生きてこられたわけだから
ここから先の人生は少しでも他の人の役に立てる生き方がしたいなぁ」
という思いが頭にふっと浮かびました…しかし、当時は子育ての真っ最中。
自分の思いとは裏腹に、日々子育てに奮闘中。自分の事で手一杯でした。
あれから12年。
あの時の思いは私の中で消えることはなく
今こうして自分の時間をしっかり持てるようになり「何か始めたい」から
「何が私にできるんだろう?」という疑問に変わりました。

何か手に職があるわけでもない…
お店を始められる資金があるわけでもない…
でも、何かやらなきゃ!と気持ちばかり焦って空回り

そんな時、原点に帰って自分の好きな事ってなんだろう?と考えました。
「書く事」「人と喋る(繋がる)事」「料理をもてなす事」「旅行」
後、人よりちょっとだけ得意な事があるとしたら…「英語」

これを全部活かせる事で何かできないかな?
自分の好きな事で、誰か1人の人でもいいからお役に立てないかな?
と考えついた先が「ブログ」でした。

ここから、自分の紹介文に入りたいと思います。
少し長いですが、お付き合いください。
先ほど、自分の少しだけ得意な事があるとしたら「英語」と書きましたが
学生時代の私は英語が大の苦手!
文法でいうと中学1年生で習い始める3人称単数の時点ですでに脱落。
勉強の仕方も分からないから、丸暗記するしかない。
でも丸暗記なんて楽しくないから頭にも入らない。
学生時代の英語に対する思いはゼロでした。
ただ不思議な事に「勉強という英語」ではなく、私の周りには幼い頃から
「英会話」が身近にありました。

ー英語との出会いー
私がまだ3歳の頃、家の真向かいに「アンさん」というハワイ出身の女性が
日本の男性と結婚して住んでいました。
彼女には「ポール君」という息子がいました。
ポール君は確か私より1、2歳年上だったと思います。
私自身、アンさんとポール君の記憶はほぼないので母から聞いた話になりますが
3歳だった私はポール君をお兄ちゃんのように慕い
いつも2人のお家に遊びに行っていたようです。
母が「あれ、いない」と思うと1人でアンさんの家に行っていたり(笑
そんな私を母が迎えに行くと玄関からアンさんと私のやりとりが聞こえてきて
それが「英語」だったそうです。
アンさんは日本語がほとんど喋れなかったので、息子のポール君がいないと通訳なし
「Amy sit down. Come here. Would you like some drink?」
などなど。
当時はまだ外国の方が珍しい時代。
英語で喋りかけてくるアンさんに全く動じるどころか
理解している様子の私に母はびっくりしたそうです。

ー人生の転換期 Part1 どん底の3年間ー
高校を卒業し、勉強嫌いの私はすぐに就職しました。
サービス業に就職しましたが、1年で辞めてしまい
その後、何も考えず母に勧められるまま事務職に就きました。
そこでの3年間が私の人生を大きく変えました…
素敵な3年間だったと思いますか?

真逆です(笑

物凄く苦しく、辛く、自分の自信を全て失った3年間でした。
当時の私は「人間関係」において絶対の自信を持っており
どんな人とでもうまくやれると自負していました。
ところが入った会社の上司と何をやってもうまくいかない。
社長からはセクハラまがいな言動を受け
今思えばなんですぐ辞めなかったのかと思います。
きっと当時の私は「自分は誰とでもうまくやれる」という意地があったんだと思います。
しかし3年目、頭には円形脱毛症を3つも作り
朝起きて会社に行かなきゃと思うだけで胃がキリキリ。
胃薬を飲みながらの出勤の日々を続けていた時、中学校の恩師に会う機会がありました。
そこで現状を相談すると

「お前、バカだなぁ。人の土俵で相撲とって勝てるわけないだろう!
それに、この世の中お前と合わない奴なんてどれだけいると思ってるんだ!?
お前はその仕事が好きなのか?
その上司に認めてもらえないとお前という人間はダメな人間なのか?
そうじゃないだろ?
俺はお前の良いところいっぱい知ってるし、自分を変えて相手に好かれたって
それはお前じゃないだろ?」と言われました。

その言葉はまさに、呪縛を解く呪文のようでした(笑
翌朝私は辞表を提出し辞めました。
それから近所のガソリンスタンドでバイトを始めました。
そこにペルー人の女の子が働いていて仲良くなりました。
彼女の名前は「スサナ」といい、旦那さんは「ニコ」。
ニコはペルーでは医者だと言っていましたが、日本でなぜか墓石屋に住み込みで働いていました。
私は2人と仲良くなり週3くらいで彼らの家に遊びに行ってはご飯を食べさせてもらっていました。
その頃、最初に就職した会社で同期で入り仲良くなった友達から
「カナダに留学に行かない?」と誘われました。
留学なんて言葉さへも頭になかった私には「青天の霹靂」でした。
彼女は高校の頃、学校を通して留学の経験があり、彼女から聞く留学の話はいつしか憧れから
絶対に行く!に変わりました。
その事をスサナとニコに話すと、自分たちは英語も喋れるから英語を教えてあげると言って
英語のレッスンが始まりました。
今、思い出すと時々発音がスペイン語読みになっていましたが当時の私に分かるはずもなく
そこからまた英語の勉強が再開しました。

-初めての留学ー
初めての留学は21歳。留学先はカナダ、期間は3ヶ月。
もちろん英語なんて全く喋れない状態で行きました。
この全く喋れないというのが、逆に良かったようです。
喋れない自分が恥ずかしいとか考えず
通っていた語学学校で同じクラスの韓国人、タイ人、スイス人と仲良くなりたい一心で
めちゃくちゃな英語を話していました。
学校に入る前に、クラス分けのための英語力テストがありました。
当然結果は下から2番目のクラス(笑
そんなクラスにいるクラスメイトだから、くちゃくちゃな英語でもお互い様だったんです。
母国語の違う友達との会話
外食をすれば注文からお会計まで英語
1日の出来事をホストマザーに話す時も英語
全てが新鮮で刺激的な留学生活はあっという間に終わってしまいました。
自分の中では大成功!
なんなら英語も話せるようになったと勘違いするくらいの気持ちで日本に帰りました。

帰ってからも、海外生活が忘れられず
親を説得してもう一度留学に行かせてほしいと懇願する日々。
するとある日、母親が新聞を持ってきました。
新聞にはイギリスにある日本の大学の奨学生の募集記事でした。
「この奨学生に受かったら行っていいよ」
私はダメもとで受けました。
そしたら、なんと奇跡的に受かってしまいました。
母も諦めさせるために提案したことが、まさか受かるとは…
内心焦っていたんじゃないかと思います(笑
短期大学生として入学したので卒業まで2年通うはずでしたが
私は1年で辞めてしまいました。
1番の大きな理由は、通っていた大学の学生のほとんどが
お金持ちの子達ばかりでイギリスにいるのに、イギリスの中にある
小さな日本にいるような感じがしてしまったこと。
2つ目の理由は、イギリスという国がカナダと違って
とても閉鎖的に感じてしまった事でした。
でも今となればですが、あの時のイギリスの生活があったからこそ
「自分は日本人」という事を考える気かっけになったような気がします。

そしてイギリスから親に電話し、必ずお金は返すからと約束しイギリスからカナダに移りました。
カナダでは前回行った語学学校に入学の申請をし
住む所は前回の学校でクラスメイトだった、韓国人の友達が
一人暮らしをしていたので、ルームシェアをしてもらえる事になりました。
カナダでの生活が落ち着き始めた頃でした。
父から母が倒れたという電話が入りました。
電話で聞かされた状態は、かなり悪いものでした。
母は意識もない状態で、救急治療室にいるという話です。
私は翌日、日本行きの航空チケットを買いに行きすぐに帰国しました。
母の状態は変わらず、私が帰国してから1ヶ月以内に亡くなりましたが
その間言葉を交わすことはできませんでした。

ー人生の転換期 Part2 母親の死と夫との出会いー
母が亡くなり、父との2人暮らしが始まりました。
正直、絶望的な気持ちでいっぱいでした。
カナダ生活もこれから頑張るぞ!っという矢先だったので
カナダに対して未練がいっぱいでした。
母が亡くなって1年後、父に「ワーキングホリデー」に行かせて欲しいと頼みました。
どうしても、カナダに帰りたいという思いを捨てきれずにいたのです。
父はワーキングホリデーが終わったら必ず帰ってくることを条件に了承してくれました。
当時、カナダのワーキングホリデーを取るのは容易なことではありませんでした。
条件がいくつかありました。
年齢制限(当時の私は年齢制限に引っかかっていたので英語でレポートを出しました)
残高証明(最低50万円準備)、後カナダは日本からワーキングホリデーが取得できる国の中で
人気第1位だったので人数にも限りがありました。
まずはお金を貯めないといけないのでバイトを探すところからです。
バイトを探していると、妹の友達から連絡が来ました。
内容は今度から外国人大工を使うことになったから通訳をして欲しいという話でした。
私は役に立てるか分からないけど、いいよと安請け合いをしました。
結果は全くもっての役立たず(笑
なぜなら、訳さないといけない「日本語ー大工用語」が分からない(笑

現場監督:「まぐさの部分を説明してほしんだけど」
私:「えっと…まぐさってなんですか?」

こんな調子だったのですぐにクビになりました。
でもその時に出会ったのが夫でした。
夫は私と出会う前に、北海道の旭川で1年大工として暮らした経験があり
日本の事をとても気に入っていました。
私と出会った時も、日本に住みたいといつも言っていました。
私はというと、その逆で父とは約束したもののチャンスがあるなら日本より海外、
それもカナダに住みたいと思っていました。
お互い住みたい場所は違うものの、日本語を覚えたい夫と
英語を勉強したい私は遊ぶ事が増えました。
その頃、夫は日本の在留資格が観光だったので滞在期間に限りがありました。
初めての観光ビザで3ヶ月、その後1度日本を出て再入国すると
もう1度3ヶ月の観光ビザがもらえます。
でも大抵の場合、年数を空けない限り3回目はありません。

ー結婚ー
夫が2度目の観光ビザが切れる数週間前に「結婚してほしい」と言ってきました。
彼は
「ビザの為じゃないからね!」
と言ってきましたが誰が聞いたってビザの為にしか思えない(苦笑
誰にどう思われようと関係ないのですが、私自身どう好意的にとろうと思っても
やはり首を縦に振ることはできませんでした。
そこで夫に
「私はカナダにワーキングホリデーの申請をしていて
申請がおりたから一緒にカナダに帰ろう。
そして私がカナダに居る間に、あなたは今の日本の会社から
就労ビザを用意してもらえるよう交渉して!
それで自分の力で日本に居れる状態でも、私と結婚したいというのであれば、
その時、結婚について真剣に考えます」と伝えました。
そして2人でカナダに行きました。約1年後、夫は就労ビザをとり私達は日本に帰国。
それから1年後私と夫は結婚をしました。

ー結婚生活・子育てー
国際結婚だと習慣の違いや文化、考え方が違うから難しいと言ってみえる方もいますが
私自身で言えばあまり問題になったことはありません。
もちろん人並みに夫婦喧嘩もしますが、それは夫が外国人だからという理由ではなく
よくある普通の夫婦喧嘩です。
夫は大工なのですが、職人気質なところがあり
ある意味、日本人よりも日本人っぽいところがあります。
もしかしたら、そういう事も関係しているかもしれません。

子供は結婚してから5年目に授かりました。
子供をバイリンガルに育てようと英語でずっと話しかけたり
毎晩読み聞かせで読む本を英語の絵本にしたりと頑張っていました。
しかし幼稚園にあがる頃から娘は、自分が「ハーフ」という事に
コンプレックスを感じているようでした。
英語で話しかけられるのも嫌、パパが外国人というのを
隠したがる事が多くなりました。
それは高校を卒業するまで続きました。
夫にも辛い時間でしたし、娘にも辛い時間だったと思います。
私も娘とこの事について何度か話し合いましたが平行線に終わりました。
私自身「ハーフ」でいることの経験がないので、彼女の悩みに
寄り添えきれなかった部分も多かったと思います。

ー現在ー
夫と結婚してから25年。
「ハーフ」である事を気にしていた娘も現在大学1年になりました。
彼女の大学には海外からたくさん留学生がいたり
ハーフの子がたくさんいる大学なので
パパがカナダ人というコンプレックスはなくなったようです。
夫に対する態度も随分と柔らかくなりました。

一緒に暮らしていた父は4年前に亡くなり
私達はそれを機に家を売り田舎に引っ越してきました。
現在は山小屋のようなログハウスに、家族3人+柴犬カイと暮らしています。

まだまだ、書き足りないエピソードもたくさんありますが
また折に触れてお話しできたらなと思います。
こんな私ですが、このブログを通して誰かのお役に立てれる事ができたら本当に幸いです。

持ち寄りパーティのレシピに困った時
いつもと違ったご飯を食べてみたくなった時
よかったら料理の中で載せているレシピを使ってみてください。

少し前の私のように
「何をやりたいのか分からない」
「現状から変わりたい」
「モチベを上げたい」と思っている方
モチベート・ミラーで紹介している物は、私自身が心を動かされ
気持ちを前に進めることができた物ばかりです。
記事を読んで頂いた方の「ヒント」になったり
「背中を押すきっかけ」となったらとても嬉しいです。